受験で選ばれた子しかいない学校には、多様性がない

受験で選ばれた子たちが集まる学校って、なんかすごそう

小学校受験がひと段落したら、今度は中学受験シーズンが目前。いまの時期は、なにかとお受験の話題が飛び交います。

公立校出身
公立校出身

ママ友の子、受験するんだ…。うちは考えてないし、大変そうだし、そもそも経済的に無理だけど…でも、なんでだろう。モヤモヤする

うちは公立校確定。でも、私立校が羨ましいっていうのとはちょっと違う。

まぁこれ言ったって、僻みだと思われるだろうな。あーモヤモヤする!

そんな声が、全国から聞こえてくる今日この頃。

受験で選ばれた子たちが集まる学校って、なんかすごそうですよね。

でも本当に、すごいんでしょうか?

選ばれた子たちが集まる学校=生徒の多様性がない

私は中受を突破して、難関校に入学したタイプの人間です。私の考えでは、受験を突破した者たちだけの環境は、控えめに言ってクソでした。

いくつか理由はあるのですが、その1つは、多様な視点が全く得られないからです。

偏差値至上主義を叩いた記事で解説したとおり日本の私立学校は、入学はしにくいが卒業はしやすいシステムになっています。

小学校受験ならクマ歩きができて、季節の草花を知っていて、ハキハキお話しができる子。中学校受験なら、ペーパーテストで高得点を叩き出す子。

単純化しましたが、要するに学校が定めた基準を満たした子だけが、入学できるのです。

すると、こんな子どもは自然と排除されます。

  • 親が日本語を話せない、外国籍の子
  • 発達障害で長時間椅子に座れない子
  • 貧困ラインで生きる、シングル家庭の子
  • 親に重い障害や病気がある子

多様性の有無は、学校の評判に直結する(海外の例)

一方、海外の学校では多様性の確保はトッププライオリティです。

偏差値で学校をランク付けするのは日本だけという話をしましたが、他国では何でランキングをつけているかというと、多様性が評価項目に入っているのです。

良い学校のイメージ。アメリカは生徒と教師の多様性、授業・設備の充実度、学問領域での表彰歴が評価される。一方日本では、入試の難易度を表す偏差値が高い学校ほど有り難がられる。

人種、ナショナリティの多様性を配慮するのはもちろん、例えば大学の入学審査では「あなたは一族で初めて大学に進学する人ですか?」という質問もあります。

多様性を重視?ポリコレでしょ?と思うかもしれません。でも、この傾向は欧米のみならず、東南アジア・中東・アフリカの私立学校でも同じです。

なぜ多様性が重視されているのか

多様性の確保には、ちゃんと経済的な合理性があります。

元アップルの松井博さんは著書『企業が帝国化する』で、次のように指摘しています。

 松井博さん
松井博さん

1つの国で成功をおさめた会社が周辺地域に事業を拡大するというモデルは、もう古い。いまは世界中の企業が、最初からグローバル市場を取りに行くモデルにシフトしている

この本が出版されたのは10年も前ですが、その時点でビジネス界は大きく変わっていたのです。(ちなみに私はこの本つい先月買いました。マイクロソフトがAI領域で「帝国化」しているのを見て、今から読んでも学べるものが多いと感じたからです)

そんな世界で重宝されるのは、価値観や意見が180度異なる人とも効果的にコミュニケーションをとって、協力して物事をすすめられる人材です。

多様性のある環境で学んだ、筆者の夫の見解

では、多様性のある環境で学ぶと人はどうなるのでしょうか。

良い例が、私の夫です。彼は外資系コンサルタント会社で、マネージャーとして働いています。一方、仲良しの同級生たちは、建設現場や印刷工場で働いているそうです。

夫は葛飾区出身で、地元の公立小学校に進学。同級生はカオスだったそう。

ダウン症の子が何のサポートもなしに在籍していて(それはそれで問題)、日本語があやしいバングラデシュ国籍の子がいて、ヤンキーがいて(のちに輩同士の喧嘩で刺殺された)。

葛飾区公立校出身者(筆者の夫)の知っている多様性

夫自身は、経営者の息子でした。

夫

職業に貴賎がないとは心から思える。年収は努力ではなく、所属する業界で決まるから。”あの群”の中に、とても仲の良い友人たちがいる。だからコンサルとして、彼ら4人分の給料をもらうことに、やるせなさ、申し訳なさのようなものを感じる

違和感は、子どもの時からあったと言います。

夫

ある同級生は、家庭の経済事情で、実力よりランクの低い高校に入った。そして大学も、イマイチなところに進学した。自分は実家が裕福だったから、D判定、E判定でも好きな学校を適当に受けられた。そして運良く、合格した

夫

だから自分だけじゃなくて、周りのため、世界をよくするために力を注がなきゃいけないよねという発想になる

しかし夫曰く、多様性のある環境で過ごしたことは自分の財産だと評価するものの、それはあくまでも「生存バイアス」だそう。カオスな環境では、争いは日常茶飯事ですし、堕ちる時にはとことん堕ちるから、と言います。

夫

たとえば僕が10回この人生を繰り返したとしたら、9回はクズになって破滅すると思う。それだけ今の僕の生き方は再現性がない。多様性が良かったなんて言うのは、生存バイアスでしかない

多様性がない環境で学んだ、筆者の見解

受験を突破した人だけが集まる環境に、多様性は全くありません。せいぜい習い事がバレエかバイオリンかという違いか、休暇にパリに行くかハワイに行くかのバリエーションです。(私の母校の話です)

難関私立中高大出身者(筆者)の知っている多様性

でも、10回人生を繰り返して9回破滅するということはないでしょう。多様性の排除は、人生を大きく踏み外さないためのガードレールになっているのかもしれません。

その踏み外さなかった人生が、幸福度の高いものになるかはまた別の話ですが。