見返りを子どもに求めない

世界は贈与でできている

記事で紹介されている商品を購入すると、売上の一部がロジカル育児に還元されることがあります🌱

見返りを求める人の世界の見方

父の人命救助

その日、父は踏切待ちをしていました。

踏切を通過する電車

電車が通過し、遮断棒が上がりました。

父が踏切の中央に達すると、もう次の警報音が聞こえてきました。このあたりは列車の本数が多いので、短時間で渡り切らねばなりません。

踏切を渡り終えたその時、背後でカッシャーンと音がしました。

振り返ると、女性が電動自転車ごと転倒しています。しかも、後部座席には小さな女の子が!

父はすぐさま遮断棒をくぐり、中へ入りました。

父は、無我夢中でした。女の子ごと、電動自転車を踏切外へ引きずり出すことに成功しました。母親はクツが脱げ、血が滲んでいましたが、とにかく全員無事でした。

助けた人に、見返りを求める?

家族のLINEでこの一件を知った時、私は「なんてラッキーなんだろう!」と思いました。

父は非常停止ボタンを押さずに、踏切に入りました。これは致命的なミスです。それにも関わらず生還できたのは、たまたま通りかかった人がボタンを押してくれたからです。

また父はこの直前、整体でマッサージを受けていました。高齢なのにとっさに動けたのは、身体が軽かったからに違いありません。3人とも幸運でした。

人を轢かずにすんだ運転士も幸運でした。

私はすっかり上機嫌になり「今日はなんてラッキーな日だ」と、その晩はケーキを買ってお祝いしました。

ところが、この出来事に、私とは全く違う反応を示した人がいます。

それは私の姉です。

彼女は父からのLINEに、こう返信しました。

「なにそれ超迷惑。菓子折りでも持って来いし」

『世界は贈与でできている』から学ぶ、見返りを求めない子育て

資本主義の論理で生きる人

私はこのメッセージを見て、純粋に驚きました。

「なるほど、こう考える人もいるのか」と。

そして、数ヶ月前に読んだ本のことを思い出しました。それは、近藤悠太著『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』です。(第29回山本七平賞・奨励賞を受賞)

姉のことを、「性格が悪い」と思う人もいるかもしれません。

でも私は、これを性格の良し悪しで説明したくないのです。

私と姉は、世界の見方が違うのです。

姉は、資本主義の論理で生きています。

資本主義とは、交換の論理に根ざしています。交換は、自分が欲しいものや必要なものを得ることを目的とし、返礼や対価を期待する行為です。つまり姉は、父の人命救助(サービス)に対して、菓子折り(対価や金銭的な見返り)を求めることで、交換を成立させようとしたのです。

「贈与」の論理で生きている人

一方、私は「贈与」の論理で生きています。

基本的に私は、自分を恵まれた人だと思っています。温かい家族がいて、好きなことを仕事にできていて・・・幸せのリストを作ったら、キリがありません。

そしてその幸せは、自分の努力で手に入れたというよりは、何かの巡り合わせで偶然そうなっている、と考えています。

資本主義の論理に立てば、私を幸せにしてくれている不特定多数の人々を相手に、返礼や対価を支払わなければならないことになります。しかし、それは現実的に不可能です。

そこで私は、「一方的に、幸せをもらっちゃった」という負い目を感じます。

負い目を感じ続けるのは気持ちが悪いので、私は負い目を消そうとします。

負い目を消すためには、私は自分の幸せを、次の人にギフトしなければなりません。それを本書『世界は贈与でできている』では、「贈与」という言葉で表現しています。

子育ては「贈与」=見返りを求めない

そして本書は、子育ては「贈与」だと言い切っています。

親は幼児教室や学習教材などを子どもに与えては、◯◯ができた、◯◯に興味を持つようになった、といった即物的な効果を期待しがちです。でもこれでは自分が欲しいものや必要なものを得ることを目的とし、返礼や対価を期待する行為に他なりません。

教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くするほうならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。しかし、恐ろしいものだとよく知った上で謙虚に幼児に向かうならば、やはり教育はたいせつなことなのである。

(Amazon)岡潔『数学を志す人に』平凡社

私は親として早い時期に、子育ては「贈与」だと理解できて良かったです。私の幸せを、子どもたちにそっと手渡す。それだけしておけば、大きな間違いはおかさない・・・そう思っています。